TEL Email

コラム

グァテマラよもやま話 その31 手術と帰国


2022.01.06コラム


病院に着くと、処置室に通されました。担架ではなく、松葉杖を使っての自力歩行です。

病院と言っても、診療所といった規模の平屋の建物です。当直の医師も看護師もいません。

アジュダンテが看護師に連絡を取ったようですが、来院するにはしばらく時間がかかるとのこと。それまでは処置室で待機です。

 

処置室には、農夫が一人横たわっていました。猟銃をいじっていたら、間違えて自分の足を撃ち抜いたとのこと。血が流れています。相当痛いのでしょう、ずっと呻いています。私も骨折しているので相当痛いはずですが、生き延びたことで興奮しているのか、あまり痛みを感じることなく、農夫の呻き声を聞きながら待っていました。

 

やがて到着した看護師は、まず農夫の処置を始めました。馬鹿なことしたね、ほら、痛がらないで、みたいな感じで荒っぽく包帯を巻いたりしています。農夫の処置が終わると、私に対して、今日は医師は来られないので、一晩安静にするしかないね、みたいなことを言います。そんなことある?と思う反面、あんな雑な処置されるよりははるかにマシです。オーケーオーケーみたいに返事をして、そのまま放置されるかと思いきや、看護師は私の足の処置をしようとするではないですか。いや、頼むから触らないでーと思った瞬間、連絡を受けた調整員が処置室に駆け込んで来ました。天の助け!と思い、状況を説明して、調整員の宿泊先のホテルに連れて行ってもらうことになりました。

 

幸い、開放骨折ではなかったため、包帯を巻く程度の処置だけして、ホテルに移動しました。そのあたりから、気が緩んだのか、痛みがどんどん強くなっていきます。足もさることながら、頭がガンガンします。身動きできないまま何とか朝まで耐え、翌朝一で調整員の車で首都グァテマラシティに向かい、入院しました。カミオネタだったら、長時間のエンジンの振動で死ぬ思いだったことでしょう。入院先も、クレセンシアの公立病院ではなく、きれいな私立病院です。お金のあるなしで全然違います(支払ったのは事務所ですが)。

 

右第3・4中足骨複雑骨折でした。患部が腫れ上がっていて、すぐに手術をすることが出来ず、2日間病院で安静にしていました。病院食は、日本だと、消化に良くて塩気の薄いものが多いと思いますが、そこはグァテマラ。フリホーレスのスープやらポジョフリートやら、高カロリーで塩分の高いものがバンバン出ます。どぎつい色のレフレスコまで付いてきます。確かに病気ではないので、内臓への負担は考えなくてもいいのかもしれませんが、そもそも身体に悪そう。本当に大丈夫なんだろうか、と迷いつつ、しっかり食べていました。

 

入院3日目、いよいよ手術です。麻酔の導入剤を渡され、飲みました。しばらくすると意識を失い、目が覚めたのは4時間ほど経った後でした。一人でいる病室で、足が包帯でぐるぐる巻きにされているのを見て、手術が終わったことを知りました。手術前にお見舞いに来てくれていた隊員の話では、導入剤を飲んでしばらくすると、急に私の呂律が回らなくなり、あれっと思った矢先、「僕の遺言を聞いてくれますか・・・」と言い残してがくっと意識を失ったそうです。急激に意識が飛びそうになり、やばい俺このまま死ぬかも、と思ったのでしょうね。意識が戻って本当に良かったです。

 

手術後最初の包帯交換の際、すごく出血していたので驚きました。その時、輸血をしたことを知りました。グァテマラ人の血がかなり私の体内に注がれたわけです。失われた血を補うためか、手術後も高カロリーで塩分の高い食事が出され続けました。むしろ太った?と思いつつ、手術の2日後に退院できました。退院後はグァテマラシティの隊員連絡所で寝泊まりしました。そして、日本で再検査を受けた方がいい、一人で帰国するのは無理なので、たまたまこの時期に帰国することになっていた同期隊員2名(お世話になりました)に付き添ってもらおう、ということで、私の任期は強制終了となりました。

 

着の身着のままで入院したので、帰国のためにサラマに戻って荷造りをしなければなりません。しかし、複雑骨折の身、一人では何もできません。移動は事務所の車を使い、荷造りは近くの隊員に手伝ってもらい、最終の活動報告書を何とか書き上げて、サラマを引き払うことになりました。サラマを離れる日、活動先の村の皆さんが見送りに来てくれました。突然の別れで、私も彼らも何を言ったらいいかわかりません。とにかくお互いの無事を祈りつつ、サラマを後にしました。

 

グァテマラを離れる朝、グァテマラシティのアウロラ空港には、多くの隊員に交じって、特に仲の良かった村人たちがわざわざ見送りに来てくれました。本当はもっとじっくりと別れをしたかったのですが、それでもとても嬉しかったです。

 

帰国ルートは、グァテマラシティ→ロサンゼルス→サンフランシスコ(一泊)→成田でした。右足の膝から下が固定されており、エコノミークラスの座席には座れないので、生まれて初めてビジネスクラスを取りました。当然チケットは高額ですが、隊員は貧乏です。しかし、帰国の際には、帰路変更という寄り道旅行制度があったため、直帰の旅費にプラスして帰国旅費が支給されていました。私は、事故さえなければ南米のギアナ高地に行く予定でした。これをキャンセルして浮いたお金を、ビジネスクラス料金に充てることができたのです。自腹では到底無理でした。

 

ビジネスクラスのシートは広くて良かったのですが、いかんせん無理な姿勢ですし、飛行時間も長いし、乗り継ぎ2回に途中泊まであったので、出発して2日目の夜に成田空港に着くころには疲れてふらふらでした。せっかく迎えに来てくれた家族や友人に愛想良く接することもできず、実家の車に崩れ落ちるように乗り込みました。

 

久しぶりに走る夜の東関東自動車道。こんなに灯りが多かったっけ?日本の道を走るのって、こんなに揺れなかったっけ?などと驚いているうちに実家に着きました。すると、家の中の照明が眩しくて目を開けていられません。たまらず半分消してもらいました。2年以上夜が暗い状態で過ごして、照明の明るさに耐えられないほど目が順応していたのですね。

 

帰国後、様々な身体検査を受けたのですが、その中にHIV検査もありました。私は、グァテマラで輸血を受けています。グァテマラを含めた中米は、世界で最もHIV感染者率が高い地域です。輸血用血液のHIV検査を、グァテマラの病院がどの程度厳密に実施しているかわかりません。私はこの検査結果が出るまでの間、せっかく交通事故で死なずに済んだのに、こんな形で死ぬことになるのかな、と相当ドキドキしながら過ごしました。結果は陰性でした。その後司法試験に合格した時より、この時の方が安堵したかもしれません。

 

 

続く

page top