私は小さいころから、宗教に興味がありました。もっとも、何か特定の信仰を持っていたわけではありません。信仰を持とうとする人の心、宗教が人の心を捉える理由に興味があったのです。高校生のころは、なるべく毎日寝る前に聖書を読んでみました。しかし、ベッドで読んだせいでしょうか、旧約聖書の創世記はなんとか読み終えたものの、登場人物の多さと名前の覚えられなさに根気が続かず、出エジプト記の途中で挫折しました。大学生になってからは、マックス・ウェーバーの著作に挑戦しました。「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」は読了したものの、なんだかよくわからず、「ヒンドゥー教と仏教」「古代ユダヤ教」は買っただけ。俺は研究者にはなれないな、と思いました。
そんな私でしたので、海外を旅するようになると、イスラエルに行ってみたい、と思うようになりました。しかし当時は、湾岸戦争こそ終わったものの、中東情勢は相変わらず不安定。それどころか、敗戦したイラクのサダム・フセイン大統領が、事態打開のため何をしだすかわからない、といった状況。イスラエルに行っている間、イラクからスカッドミサイルが飛んで来ない保証はありません。さすがに不安でしたが、友人が一緒に行きたいと言い出したことから、意を決してイスラエルを訪れることにしました。
ルートは、→モスクワ→イスタンブール→テルアビブ。どこを取っても危険な響きがあります。長時間かけてようやくテルアビブに着きます。テルアビブのベン・グリオン空港のセキュリティチェック、その後行ったどこよりも厳しかったです。さすがです。私はとくに問題なく通過できたのですが、友人は海外が初めてで英語もいまひとつ。入国審査の勝手がわからず、何やら引っかかっています。引き返して介入し、何とか救出に成功。先が思いやられます。
エルサレムの旧市街に着きます。旧市街は城壁に囲まれていて、ユダヤ教徒街区、ムスリム街区、キリスト教徒街区、アルメニア人街区の4街区に分かれています。私たちはアルメニア人街区に投宿しました。
旧市街には、古ユダヤ王国のエルサレム神殿の遺跡である神殿の丘と、そこに建てられた岩のドームがあります。岩のドームは、預言者ムハンマドが昇天したとされる場所に建てられています。神殿外壁の一部は、有名な嘆きの壁です。しかも、キリスト教街区には、イエスが処刑された場所であるゴルゴダの丘に建てられた、聖墳墓教会があります。ユダヤ教の聖地の真上にイスラム教の聖地があり、キリスト教の聖地もすぐそばにあるわけです。しかも、イエスが十字架を背負って歩いたとされる「悲しみの道」の大半は、ムスリム街区にあります。エルサレムは歴史的に各国、各宗教勢力に奪い合われてきましたが、その理由がよくわかりました。
そんな中、アルメニア人街区というのはやや毛色の違いを感じます。アルメニア使徒教会はキリスト教の一派ですが、アルメニアが世界で初めてキリスト教を国教と定めたことから、独自の地位を保っているそうです。
旧市街は石あるいは土壁造の古い建物が密集していて、迷路のようです。住民も、中世や古代からタイムスリップしてきたように感じます。そんな中、迷彩服を着たイスラエル軍の兵士が多数巡回しています。後にも先にも、あんなに兵士がたくさん歩いている街を見たことがありません。兵士たちの手にはもれなく機関銃が握られています。おそらく、何かあれば躊躇なく発砲するのでしょう。そんな兵士の一人が私に声をかけてきます。強い緊張が走りますが、無視もできません。近づくと、何やら私の足元を指差します。よく聞くと、私が履いていたナイキの靴を見て、ナイキだね、いいね、などと言っています。君、自分がどんな格好しているかよく考えて話しかけてよ、と思いましたが、にっこり笑って手を振ります。
岩のドームは中に入れますが、写真撮影は厳禁です。ムハンマドが昇天したとされる岩が中央にあり、その岩を囲むようにモスクが建てられています。内壁・外壁いずれにも非常に緻密な装飾が施されています。ドーム表面は全面金色に輝いています。イスラム世界では、全世界のムスリムがその方向に向かって礼拝するというメッカのカアバ神殿、ムハンマドの霊廟でもあるメディナの預言者のモスクに次ぐ、第3の聖地とされているそうです。さすがです。こんなに荘厳かつ流麗な建築物は初めて見ました。
その岩のドームの下にあるのが、嘆きの壁です。壁自体は古代の神殿の外壁の一部なので、遺跡の風情です。頭頂部だけ隠れる程度の大きさのキッパという布を頭に乗せたユダヤ教徒がたくさん、壁に手を触れて、あるいは額ずき、熱心に何かを祈っています。別に嘆いているわけではありません。嘆きの壁という名前は、神殿の破壊(およびその後のディアスポラ=民族離散)を嘆いてユダヤ人が壁に集まることに由来しているようです。
それにしても、ソロモン王が唯一神ヤハウェ(エホバ)の聖所であるエルサレム神殿を建設したのは紀元前10世紀ですので、今から3000年ほど前のことです。ヘロデ大王がエルサレム神殿を大拡張した時期でも紀元前20年、今から2000年以上前です。そのような大昔の話を、目の前のユダヤ人たちは、自分の人生の出来事の一部と思っているかのように見えます。ディアスポラにより長い間辛い時期を過ごした、という民族としての記憶のなせる業なのでしょうか。感覚的にはまったく理解できないものの、過去と現在が交錯している風景に圧倒されました。
悲しみの道に移ります。1キロほどのこの道は、イエスが死刑を宣告され、十字架を背負い、ゴルゴダで磔刑に処せられるまでの道です。数名で十字架を担ぎ、あるいは自ら十字架を背負って、世界各地からの巡礼者が歩いています。それぞれの国旗をかざしたりしているので、どこからの巡礼者かなんとなくわかります。途中、十字架を背負ったイエスが躓いた場所、母マリアが十字架を背負ったイエスに出会う場所など、聖書の物語に沿った場所の説明があります。それぞれの場所でイエスの苦難に思いを馳せながら、熱心な巡礼者が信仰を確かにしていく様子を見ていると、信仰を持たない身としては、なんともかたじけない気持ちになりました。
そして、悲しみの道の最終部分でもある聖墳墓教会。ギリシャ正教会、カトリック教会、コプト正教会といった宗派毎に、聖書の場面毎の区画が分けられていて、教会の長屋みたいになっています。ゴルゴダの丘という名前から、草木も生えない寒風吹きすさぶ荒野、というイメージを持っていたのですが、現在のゴルゴダは教会の建物の内部で、丘でもありません。そういえば、聖書自体にはゴルゴダとしか書いていないような。最後、イエスが埋葬され3日後に復活を遂げたとされる墓があります。宗派的中立を保つため、トルコ人が管理していると聞きました。たしかに、どこにも割り当てられないですよね。
旧市街の城壁の上は、歩くことができます。中の迷路のような路地を眺めながら、ほぼ一周できます。途中、いくつもの門を通り過ぎます。名前も、ダマスカス門、ヘロデ門、シオン門など、歴史と宗教を強く感じさせるものが多いです。中には、糞門というのもあります。面白いですよね。
神殿の丘を出て東に進むと、イエスが最期の祈りを捧げたとされるゲッセマネ、イエスが昇天したとされるオリーブ山があります。聖書の舞台を不思議な気持ちで通っていきます。オリーブ山から眼下に広がる、午後の日差しに輝く金色の岩のドームと、その後ろに広がる旧市街を、いったいどれだけの人が眺めてきたのでしょうか。
続く