活動現場のひとつ、ラスミナス村は、一番よく行っていたサンガブリエル村から、さらにガタガタ道を進んだ先の谷合いにあります。ラスミナス村のリーダーはクレセンシアで、身体は小柄ですが、眉毛が太くほぼつながっていて、独特なインパクトのある風貌をしています。性格は朗らか、冗談好きなので、ラスミナス村の彼女の家に行くときは、しょっちょう冗談を言い合ったり、雑談をしたりしていました。
活動を開始してから1年以上経ったあるとき、珍しく真剣な顔をしたクレセンシアから、相談があると言われました。彼女には婦人科系の疾患があって、手術を受けなければならないが、手術費用がなくて手術を受けられないでいる、とのことでした。そして、彼女は私に、手術費用の借入を申し込んできました。
一般的には、協力隊員は現地の人とトラブルを起こさないよう留意すべき、金銭の貸し借りはトラブルの原因になりうる、と言われていました。また、協力隊は技術移転が活動の本旨である、金銭の交付は本旨に反する、日本人イコールお金というイメージを持たれても困る、という感覚もありました。ですので、例えばホームステイ先の家族といったプライベートな関係からの頼みであれば別ですが、私とクレセンシアとの関係性からは、このお願いは断るのが無難、ということになるのでしょう。
しかし、私はその場で、クレセンシアに対して、手術費用の提供を申し出ました。貸さずに、あげる、ということです。金額は忘れましたが、私からすると、それなりの額ではあるが、あげても私自身が生活に困るような額ではありませんでした。一方、クレセンシアがその額を稼いで私に返すことは、まず無理だと思われました。そうであれば、最初からあげた方が、すっきりします。
それに、クレセンシアとは活動を通じてかなり信頼関係ができていて、気心が通じ合ってきた感覚がありました。私の活動にはいろいろ無理があったのですが、彼女はよく協力してくれていました。なので、恩返しをしたいという気持ちもありました。
さらに、私は当時、彼女が内線のさなか、夫を失ったうえ、近隣の者に性暴力を受け、その結果産まれた娘を女手一つで育てていることも知っていました。上の娘とはだいぶ年が離れていてまだ幼いその娘は、顔立ちも肌の色も他の子と似ていないので、おおよそ察しはついていたのですが、ある時事情を伝えられたのです。
もちろん、一切躊躇がなかったわけではありません。このお金をあげることで、今まで築いてきたクレセンシアとの関係に変化が生じるかもしれない、その変化は良くないものかもしれない、という思いはありました。
しかし、いま私が助けなければ彼女は死ぬかもしれない、そうなると、あの子たちの生活はどうなるのだろう。そんなことを考えると、援助しないという選択肢は私にはありませんでした。
クレセンシアは、援助の申出に戸惑いつつ、喜んで受け入れてくれました。
公立病院より私立病院の方が医療水準も設備もはるかに上なのですが、とてもじゃありませんが、私立病院で手術を受けるお金は工面できません。そのため、手術は首都の公立病院で行われました。
手術は無事成功し、私は術後の彼女を見舞に行きました。そのとき彼女が寝かされていたベッドは、見るからに固く、小さく、簡易で、ほとんど会議室用テーブルのような物でした。病院内は暗く、通路と言ってもいいくらい狭いスペースに、似たような簡易なベッドがいくつもぞんざいに置かれている様子は、雑居房のようでした。
病院の通用口を出ると、道向かいには、棺桶屋がずらっと並んでいました。豪勢な装飾を施したものであれば値段は高く、簡素なものならお値ごろ。小さい子供用もあります。この病院から死んで出てくる人が多い、目の前に棺桶屋があれば探すのも簡単、ということなのでしょう。合理的と言ったらそれまでですが、日本では絶対にあり得ない光景に、強いショックを受けたのを覚えています。
私がクレセンシアの手術費用を負担してあげることで、他のリーダーたちとの人間関係に影響が出るかもしれない、ということは気になりました。なので、費用負担の件は他言無用で過ごし、幸い誰からも何も言われることはなく、人間関係への影響はとくにありませんでした。良かったです。
クレセンシアは、費用節約のため、術後すぐに退院しました。首都近辺の親戚方で多少療養したものの、間もなくラスミナス村に戻って、普通に家事や育児や畑仕事をしていました。無理はしていたと思います。しかし、のんびり寝ていることなど、彼女はできる状況にありませんでした。
私が帰国のためサラマを出る時には、クレセンシアは自宅まで見送りに来てくれました。
帰国後20年以上経ちましたが、無事でいて欲しいと思います。
続く