TEL Email

旅の話

旅の話 その2 忠魂の碑


2022.12.09旅の話


私の伯父(父の兄)は、特攻隊員でした。

旧制東京商科大学(今の一橋大学)在学中に招集されて旧帝国海軍に配属となり、神風特別攻撃隊員として戦死しています。

 

伯父のことは、実家の仏壇に特攻隊員の像が祀られていたり、実家の墓が旧帝国海軍の用意したものだったりして、知ってはいました。しかし、祖父母は私の幼いころに亡くなっており、祖父母から伯父の話を聞く機会もなく、私も伯父の話を聞くような年齢ではありませんでした。また、父が伯父の死について語ることはほとんどありませんでした。それで、伯父について詳しいことはわからないまま育ちました。

ただ、気にはなっていたので、太平洋戦争中の日本の一般大衆の戦争協力の在り方についての本を読んだり、戦争末期の学徒兵の遺稿集である「きけ わだつみのこえ」を読んだりしました。当時の状況はそれなりに想像できましたが、伯父の死についてリアリティを感じることはできないままでした。

 

だいぶ後になって知ったことですが、伯父は、大分県宇佐市の海軍航空隊基地で、米軍の空襲を受けて亡くなりました。祖母は、戦没者遺族の活動に積極的に取り組み、毎年のように宇佐に赴き、伯父を含めた戦没者の追悼を行っていました。そして、祖母らの活動の結果、伯父ら戦没者の忠魂の碑が建立されることになったのです。私の記憶にうっすらとある、小柄で物静かな祖母が、はるか遠い大分まで通ってそのような活動に取り組んでいたという事実は、私にとっては衝撃的でした。

15年ほど前、生前の父が、何をどう思ったのかはわかりませんが、伯父の追悼のため母と弟と一緒に宇佐に赴いたことがあります。私はそのとき、何かの都合で同行できませんでした。母はそのことに心残りを感じており、私もいつかは行くべき、という意見を持っていました。もちろん私も、行きたい気持ちは強くあったものの、うまくタイミングが合わず、行けずにいました。

 

先日、念願かなって、ようやく宇佐を訪れることができました。ただ、父たちが訪問した際すでに、忠魂の碑を探しきれず、宇佐神宮に行って聞き込みをして、ようやく辿り着いたという顛末がありました。それから15年ほど経っています。弟のおぼろげな記憶をたどりつつ、忠魂の碑を目指しました。しかし、あるはずの場所に行っても、忠魂の碑が見当たりません。あちこちうろうろしながら近隣住民への聞き込みを行った結果、なんと道路拡張に伴い数年前に移設されたことがわかりました。

 

移設先と目される神社を探り当て、境内に入ってみると、ありました!祖母が建てた忠魂の碑です。ここには、米軍の空襲で亡くなった特攻隊員たちの氏名が、出身地、享年と併せて刻まれています。伯父は23歳で亡くなっていました。他の隊員たちも、全国各地からやってきていて、みな20代で亡くなっています。

死なずに済んでいれば、どんな人生が待っていたことでしょう。いや、この時死ななかったとしても、ほどなく特攻隊員として出撃し、結局は死んでいたことでしょう。そう思うと、堪らない気持ちになるとともに、伯父の分まで生かされているように感じ、伯父の分まで生きなければならないと思いました。

境内には、地元出身で外地で戦死した方々の墓碑も多数建っています。墓碑には、戦没地や戦没日が刻まれています。戦没地は、今でいうインドネシア、パプアニューギニア、フィリピンなどです。海を越えてはるか遠くの戦地に赴き、亡くなった多数の人たちの、生きていた証です。それでも、こうして、いつどこで亡くなったか特定できている人は、まだ良いのでしょう。くらくらしながら眺めていました。

 

所を移して、宇佐海軍航空隊基地跡には、軍用機を空襲から守るための掩体壕があります。掩体壕の横には、宇佐から実際に出撃した特攻隊員たちの氏名、出身地、出撃日が刻まれた石碑が建っています。石碑から、昭和20年4月6日から5月4日までの間に、154名もの特攻隊員が宇佐から飛び立っていったことがわかります。

この石碑の建立日は2008年4月6日、建立者は当時の操縦教官と電信員の2名。建立者の所属部隊・氏名・在住場所も刻まれています。これを見てドキッとしました。操縦教官は、兵士たちが突撃するための戦闘機の操縦を教えるのが仕事だったのでしょう。電信員はどのような仕事だったのでしょうか。あるいは、特攻隊員たちが突撃した様の事実確認に関わっていたのかもしれません。いずれにせよ、特攻隊員たちの死をすぐ目の前に見ていたはずです。

 

終戦から63年経った2008年当時、この方々もかなりのご高齢、おそらく80歳は過ぎていたはず。そのような時期に、誰かの恨みを買うかもしれないにもかかわらず、自らの名前と立場を明らかにしたうえで、追悼の石碑を建立しているわけです。どのような気持ちでこの63年間を過ごし、どのような気持ちで建立を決意したのだろう。どうしてこの2名だったのだろう。この63年間、誰も追悼の石碑を建てようとしなかったのだろうか。そうであれば、なぜ誰も建てなかったのだろう。誰か建てていたとしたら、なぜなくなったのだろう。様々な思いがいちどきに頭を巡ります。

 

石碑の先には、別の石碑が多数並んでいます。この地を訪れた遺族が、故人を偲んで詠んだ追悼の歌が、それぞれの石碑に刻まれています。そのひとつひとつが胸に深く刺さります。

 

宇佐訪問がこれまで遅れたことに多少の悔いを感じつつも、ここに来ることができて本当に良かったと思いました。

 

 

page top