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海外の旅

海外の旅の話 その10 アムステルダム警察署


2022.10.21海外の旅


ロシアから帰国して間もなく、伯父からオランダ旅行への同伴を頼まれました。当時オランダに留学していたいとこを訪ねたい、個人旅行は不安なので一緒に来て欲しい、旅費は持つよ、とのこと。二つ返事で引き受けました。

 

別の親戚と共に成田を発ち、アムステルダム・スキポール空港に着きます。この空港、すごく大きくてびっくりしました。出迎えのいとこと合流し、何とか空港を脱出して鉄道でいとこの住む町に向かいます。オランダと言えばチューリップ。しかも時期は4月。車窓には当然のようにチューリップ畑が広がります。しかしオランダはとにかく晴れない。くすんだ曇り空の下では、せっかくのチューリップも色がいまいち冴えません。

 

やがて一行はアムステルダム市内へ。ホテルで一息ついたあと、美術館を巡りました。ルーベンスの光の描写に感嘆し、ゴッホの、とくに後期の作品の、絵の具の盛り上がり、タッチの禍々しさに、絵そのものが生きているような錯覚を起こします。世界がこんな風に生きたまま自分の中に入り込んでいるように感じるようになったら、もうまともには生きていられないな、だからゴッホは死んだんだろうな、と思いました。

 

夜はいとこが予約してくれたレストランでディナーです。見るからに高級店。一人旅だとケチってレストランなど入らないところ、えらい違いです。フロントでコートを脱ぎ、コートハンガーにかけ、席に案内されます。その後、それまで食べたことのないような素敵な食事が・・・出たのでしょうね。しかし、一切記憶に残っていません。その理由は・・・

 

食事を終えた私たちは、コートハンガーにかけた上着を取ろうとします。しかし、いくら探しても伯父のコートがありません。店員の説明では、別の客が間違えて持って帰ったのではないか、とのこと。しかし、伯父は小柄です。オランダ人はヨーロッパでもとくに身体が大きい方です。あの巨大なオランダ人が、日本人の中でも小柄な伯父のコートを、自分の服と間違うはずがありません。

 

げ、伯父さんコート盗られちゃったよ。しかも、私がシベリア鉄道で革コートを盗まれてから、わずか1か月余り後の出来事です。俺、疫病神?などと思いつつ、私たちは最寄りの警察署に行き、事態を告げます。応対した警察官は、やれやれまたか、という顔で、アムステルダムは盗難多いんだよねーと言って、盗難届の作成を求めます。盗難保険に入っている場合、盗難届の控えがあれば保険金請求が出来るとのこと。幸い、伯父は盗難保険に入っていました。帰国後、私が保険金請求の手続をして保険金は受け取れました。しかし、伯父のコートはオーダーメイドのお気に入りだったので、伯父の残念な気持ちを払拭することまではできませんでした。

 

旅は続きます。伯父は何か代わりのものを着て旅を続けたはずです。しかし、私の記憶にはそのことも一切残っていません。その理由は・・・

 

翌日泊まったホテルで、ヨーグルトが出ました。好物だし、新鮮で美味しかったので、大量に食べました。その後まもなく、私は激しい腹痛と吐き気に襲われました。苦しみながら朝を迎えましたが、体に力が入りません。移動中の電車でも、トイレに籠るか、トイレの近くの座席に突っ伏すか、いずれにせよ死んでいました。見かねた乗客に呼ばれた車掌が、私を案じて声をかけてくれます。しかし応対する余裕などありません。

私は意識朦朧の状態で数日を過ごしました。ベルギーのブリュッセルでは、有名な小便小僧すら見ることなく、ひたすらホテルのベッドに横たわっていました。地ビールを飲むどころではありません。本来私は伯父のアテンドで行ったのですが、完全なお荷物になっていました。

 

そんな私も、アントワープに着く頃には、少し体調が良くなっていました。アントワープには、「フランダースの犬」のネロ少年が亡くなった聖母大聖堂があります。訪れる観光客の90%以上が日本人だそうです。私の世代の日本人はみな子どものころ、あの物語、あの最終回のシーンに強い衝撃を受けているのですから、当然と言えば当然です。ここは見なければなりません。

 

聖母大聖堂に入ります。ネロが最期にようやく見ることができたルーベンスの絵、「キリスト昇架」、これか・・・え?

 

こんなに暗い絵だったの?

 

私はなんとなく、天に召されるネロの周りを天使が舞っているような、苦しみから解放されるような、温かく明るい絵を想像していました。しかし、描かれているのは十字架にかけられるキリスト、明るい題材ではありません。しかもルーベンスですから、光を当てている以外の部分は、意図的にコントラストをつけていて、全体的な色調も暗いのです。この絵を見てネロは安堵して死んでいったのか、と思うと、ネロに共感した幼少時の自分の感性を全否定されたような気分になり、考え込んでしまいました。

 

しかし、これはこれで現実です。貴重な体験をして前向きな気分になった私は、数日振りに食べ物を口にしようと思いました。そこで私たちが入ったのは、和食のお店。頼んだのは、胃に優しい、梅干し入りの、だしの効いた温かいうどん。細胞という細胞に染みわたります。それまで食べたうどんの中で一番美味しかったです。

 

ふと街に目をやると、話でしか聞いたことがなかった、黒い帽子、黒いスーツ、長い髭といういで立ちの超正統派ユダヤ教徒たちが、あちらこちらを闊歩しています。本当にこういういで立ちの人間がいるんだな。しかもたくさん。驚きました。アントワープは世界的なダイヤモンド取引の中心地、そしてダイヤモンド取引に従事する者にはユダヤ教徒が多いとも聞きます。なるほど。それにしても、夕方のレンガ造りの街並みの、遠くの路地を歩く彼らの姿は、実在なのか影なのか判別しがたく、とても不思議な光景でした。

 

 

続く

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