シナゴーグはユダヤ教の会堂(教会とは呼びません)です。ブダペストのシナゴーグは、なかでもヨーロッパ最大級と言われています。ブダペストにはそれだけユダヤ人が多かったのでしょう。アウシュビッツを見たばかりの私は、一体どれだけのユダヤ人が、この街から連れ去られ、そして戻ってこられなかったのだろう、と思わずにはいられませんでした。
イスラエルに行った際には、キリスト教の史跡はいくつも訪ねましたが、シナゴーグには行きませんでした。確固たるユダヤ教徒が多く住むイスラエル、その地でユダヤ教徒が普段利用しているシナゴーグに、ユダヤ教徒ではない自分が立ち入ることは、憚られたのです。ブダペストでは観光客が多かったからでしょうか、そこまでの気後れは感じませんでした。
ユダヤ教は偶像崇拝を禁止しているので、キリスト教会にあるイエスやマリアの立像や壁画に相当するものは、シナゴーグにはありません。それでも抽象的な装飾を施した建物は豪華で、イスラム教のモスクのようなニュアンスを感じました。
このシナゴーグで、なんとその日の夜、ロビー・ラカトシュのコンサートが催される、というではありませんか。
ラカトシュは、ロマ(以前はジプシーと呼んでいました)をルーツとするハンガリーのバイオリニストです。堂々とした体躯で、巻き毛の長髪。口髭は、サルバドール・ダリほどではありませんが、左右に細くぴゅーんと伸びています。ぱっと見の印象は、得体の知れない不思議な人です。
指も決して細くは見えません。ですが、ものすごい速弾き。なのに、ピッチをまったく外さないし、一つ一つの音がはっきり鳴ります。テンポもブレません。音色は、低音では太くなり過ぎず、高音では細くなり過ぎず、安定しています。ラカトシュのデビュー時、名だたるバイオリニストたちが驚愕した、という話を聞きましたが、誇張はないと思います。
そのラカトシュが、自身の楽団とともに、クレズマーの楽団とジョイントコンサートをする、というのです。クレズマーは、イディッシュ(東欧系ユダヤ人)の民族音楽で、暗くもの悲しいメロディーのバラードや、アップテンポで激しい舞曲が多く、クラリネットやバイオリンを用いるのが特徴です。非常にエキゾチックで、ユダヤ人のメンタリティを感じます。ロマの音楽も、負けず劣らずアップテンポで激しいのですが、ツィンバロンという、ピアノのように一音一音張られた弦をバチで叩いて音を出す楽器を使うのが特徴です。このツィンバロン、音量はさほど大きくなく、音色も柔らかめではありますが、速弾きができ、パーカッシブなニュアンスを出すため、ロマのアンサンブルは非常にアグレッシブな印象を受けます。
ロマとイディッシュが本場ブダペストで音楽バトル。そして主役は超絶技巧のラカトシュ。これは聴くしかありません。
コンサートが始まりました。ラカトシュ楽団とクレズマー楽団が交互に演奏しながら進みます。美しい装飾に彩られたシナゴーグの広い堂内に、ラカトシュの奏でるバイオリンの、ゴージャスかつ繊細な音が響き渡ります。照明も凝っていて、堂内を時には赤く、時には青く、その他様々な色に染めていきます。なんという贅沢な時間。最後は、ラカトシュ楽団とクレズマー楽団が一緒になって、激しく演奏します。まさにバトル。2時間ほどだったでしょうか、恍惚の時間はあっという間に過ぎました。
素晴らしいコンサートは何回も経験しましたが、この時ほど耳も目も奪われ、心を根こそぎ持っていかれたことは、なかったように思います。翌日、ブダペスト市内のCD屋を巡ってラカトシュのCDをあるだけ購入しました。今でもたまに聴いています。
続く