私の協力隊員としての活動の話に移りましょう。
私は、村落開発普及員という職種で派遣されました。要するに、何でも屋です。
協力隊は途上国への技術移転を目的とするので、基本的には、伝えるべき技術を持った人が派遣されるべきことになります。分野としては、野菜・果樹などの農業、植林などの林業、水産物の養殖や漁法指導などの漁業、自動車や船舶のエンジンの保守といった機械関係、柔道・空手などのスポーツ指導、看護師などの医療系、日本語教師などがあります。
しかし、中には、とりあえず行って必要なことをやる、という落下傘部隊みたいな枠もあります。私は、とくに技術がなかったので、ダメ元でこの枠で応募したところ、ラッキーなことに合格しました。もしダメだったら、井戸掘りなどの技術を教える学校が日本国内にあったので、そこに入って技術を身につけ、より専門的な分野で国際協力分野に入り、最終的には世界を股にかける井戸掘り職人になる、というプランを持っていました。おそらく、アフガニスタンで長年支援活動に携わっていた中村哲医師の著作を読み、薄ーく感化されたのだと思います。
協力隊の試験は、筆記、面接、スポーツ指導などでは実技も、というものです。面接では志望動機などを聞かれたのですが、後から聞いた話では、志望動機はどうでもよくて、慣れない土地で2年間過ごし切るメンタルがあるかどうか、見極めているそうです。たしかに、日本から途上国に行ったときのカルチャーショックは大きいし、途上国から日本に帰ったあとの逆カルチャーショック(日本になじめない)もありますので、あながち嘘でもないかな、と思います。私の何を見てメンタルを判断したのか、聞いてみたいところですが、おそらく、面接の前に阪神淡路大震災があり、ボランティアをしに有休を取って神戸に行き、役所で寝泊まりして食料配布の手伝いをした話が効いたのだと思っています。
合格後、2か月余りの国内訓練があります。私は長野県の駒ケ根にある訓練所で過ごしました。4月上旬からの時期、山の麓で朝晩はかなり冷え込む場所でしたが、集まっているのは、右も左もわからない途上国で今から2年間過ごそうという20代・30代の男女ですので、テンションは極めて高かったです。農業やそれまでの人生でまったく接点のなかったジャンルの人たちと接することができ、刺激的な日々でした。
訓練は語学がメインで、私もゼロからスペイン語に取り組みました。スペイン語は発音が日本語に近いので取っつきやすかったですが、ポーランド語とかブルガリア語とかは大変そうでした。
語学の合間に、週1回のペースで、肝炎や破傷風などのワクチンの予防接種を受けました。おかげでたくさんの抗体を持つことができ、お得感がありました。ただ、注射のあとは体が熱っぽくなるので、毎朝6時半ころからあるラジオ体操とジョギングは、なかなかしんどかったです。
ニワトリを絞める、魚をさばく、といった生活関連の訓練もありました。ただ、グァテマラでは、市場では生きたニワトリを売っていましたが、肉屋で切り身を買っていました。火起こし、泥水の濾過、雲の形状からの天気予報などの教材ももらいましたが、その後使うことはありませんでした。しかし、地域によってはそういった知識・技術が必要なこともあるでしょう。そういう地域で活動する協力隊員には頭が下がります。
訓練終了後出発までに準備の時間があります。私は、具体的に何をするのか決まっていない状況で派遣されたので、何を準備したらよいのかわからず、本部に電話したところ、あなたは住む地域もやることも決まっていないので、自分で必要と思う物を持ってきてください、バイクが貸与されるはずなのでヘルメットは必要でしょうね、みたいなことを言われました。それで、かさばるフルフェイスのヘルメットを持って行ったのですが、グァテマラに着いたら、バイクと一緒にヘルメットも貸与されました・・・。
続く