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海外の旅

海外の旅の話 その42 アウシュビッツ


2025.07.04海外の旅


プラハから夜行列車でポーランドに向かい、朝、オシフィエンチムという駅で下ります。

アウシュビッツ強制収容所の最寄り駅です。

 

アウシュビッツは、第二次世界大戦中にナチス政権によって建てられた最大規模の強制収容所です。ポーランド南西部のビルケナウにあり、第1~3強制収容所の3つで構成されていました。強制労働、新薬開発目的・絶滅対象者の人工的不妊・障がい者対象などの人体実験、毒ガスなどによる大量虐殺が行われていました。被収容者の大半がユダヤ人でしたが、ポーランド人、政治犯、ソ連軍捕虜、ロマ民族、同性愛者などもいました。1940年5月の開所以降、1945年1月にソ連軍が解放するまでの間に、殺害された人数は、少なくとも100万人以上とされています。

 

収容所を取り囲む外壁には、高圧電流の流れる有刺鉄線が設置されています。監視塔も多数あり、護衛兵たちが厳しく出入りを監視しました。逃亡はほぼ不可能でした。

 

第1収容所の入口には、有名な看板が掲げられています。「ARBEIT MACHT FREI」と書かれていて、ドイツ語で「働けば自由になる」という意味なのですが、実際には、過酷な労働、冷暖房のない宿舎、粗末な食事、劣悪な衛生環境などにより、被収容者たちは衰弱し、多くは数週間から数ヵ月の間に、次々に死んでいきました。衰弱死した人もいましたが、衰弱により作業ができなくなったことでガス室に送られた人が多く、高圧電流に身を投げて自殺する人もいたそうです。

 

アウシュビッツの広大な敷地には、同じような宿舎がいくつも整然と並んでいます。これらの宿舎は、ナチス政権がヨーロッパ各国への侵略を進め、強制収容所に送り込むユダヤ人などの数が増加するのに応じて、被収容者たち自身の強制労働によって建設されていったものです。

 

強制労働は、炭鉱や岩石の採掘場、建設工事、トンネルや運河の造成など、強制収容所外でもなされていました。重労働であるうえ労働環境も厳しいため、強制収容所外に出ていた被収容者の生存率は低かったようです。一方、強制収容所内での調理など軽作業に従事した被収容者の生存率は、相対的に高かったようです。

 

最近の話ですが、アウシュビッツの内部事情を探るため、意図的にナチスに捕まって収容されたポーランド人レジスタンスのドキュメンタリーをTVで見ました。ソ連軍がアウシュビッツに迫るなか、ナチスは記録を焼却したり施設を破壊するなどして、虐殺の証拠の隠滅を図ったのですが、この人を含めた生存者たちのおかげで、収容所内で何が行われていたのか、世間は知ることができました。被収容者同士で、監視の目をかいくぐって食料を融通し合ったり、ときにはレジスタンスのために火薬を収容所外に持ち出したりもしていたそうです。当然、ばれたら殺害されます。それでも、無抵抗のままではいられない、という強い意志を感じました。自分だったら、ここまでできただろうか、と考えさせられました。

 

ガス室も見ました。被収容者は、まず脱衣所で衣服や身の回りの物を取り上げられ、次に「シャワー室」、実際にはガス室に、多い時は一度に600人詰め込まれて殺害されました。最も多い時期には、毎日6000人ものユダヤ人がガス室に送られていたそうです。取り上げられた靴やかばんといった物品も展示されています。ガス室送りの前に切り取られた女性の髪の毛も、大量に残っています。髪の毛は生地に加工されていました。遺体は焼却炉で焼かれますが、焼却後に残った金歯や指輪はおろか、灰まで肥料として利用していたそうです。

 

第2収容所はさらに広大で、鉄道の引き込み線路が何列も並んでいます。ヨーロッパ各地から鉄道で大量に、ユダヤ人その他の犠牲者が移送されてきたことがわかります。この広大な敷地を眺めていると、わずか数十年前にこの地にあった狂気のすさまじさに、気が遠くなりました。

 

当地には日本人のガイドの方がいて、予定が合えば個人でもガイドを頼めるようでした。残念ながらうまく予定が合わず、ガイドをお願いできなかったので、当日は英語の案内文を読み、なんとなく理解しただけでしたが、実際に収容所の全体や建物内部、展示物を見るだけでも、十分歴史を心に刻むことができました。

 

人生において必ず来るべき場所だと思っていたので、去りがたかったですが、丸一日近くいてさすがに疲れた頃、クラクフの街に向かいました。クラクフは、ワルシャワの前のポーランド王国の首都で、現在でも工業や文化の中心です。夕日に照らされるヴァヴェル城を散策しながら、古都の情緒を味わいました。

 

夕食は郷土料理のお店で食べました。料理も美味しかったのですが、何よりもそこで飲んだポーランド産のウオッカの美味しかったこと。目から鱗が落ちました。ウオッカは好きで、ロシア産のものを好んでいたのですが、ポーランドウオッカ、大変なクオリティの高さでした。銘柄を控えなかったのが悔やまれます。

 

この日はまた夜行列車でハンガリーのブダペストに移動する予定だったので、クラクフにはほんの数時間しか滞在できなかったのですが、落ち着いた雰囲気の街で、できれば再訪して、今度はゆっくりしたいと思っています。

 

 

続く

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